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​コラム

日本人は無神論者か?: フランス人記者のインタビュー

2013年6月10日

Skepticsのホームページを通して、Patrick Chesnetというフランス人記者からインタビューの申し込みがあった。日本人が無神論者であるというが何故かという質問である。副会長と相談の上、会長である私がインタビューを受けることにした。 彼は日本に来るわけにはいかないので、スカイプでインタビューをしたいという。日本とフランスでは現在は7時間の時差があると言う。メールでやり取りした結果、6月9日の16時からスカイプで話し合うことにした。インタビューは1時間20分に及んだ。 彼のスカイプアドレスを聞き、また私のスカイプアドレスを伝えて待ち構えていると、16時過ぎに彼からスカイプのコールがかかってきた。まず私が自己紹介し、それから彼が自己紹介をした。彼はフリーランスの雑誌記者であるようで、上記の問題に関しての記事を書きたいと言う。 質問の要点は次のようなものだ。日本のことはフランスには広重の浮世絵などで知られるようになった。自分は日本に行ったこともあり、日本に興味を持っている。日本には神社仏閣がたくさんある。また日本の禅も良く知られている。だから日本人は非常に宗教的な国民なのだと思っていた。しかしそうではなく、日本人は無神論者であると聞いた。それで非常に混乱したので、そのことについて記事を書きたいという。 私が説明したのは以下のような考えである。まず立場を明らかにするために、彼がクリスチャンかどうか聞いた。彼が言うには、もともとはクリスチャンであったが現在は無神論者であるという。 私は形式的には仏教徒であるが、それほど深く仏教を信仰しているわけではない、また神社にも行く。日本人の宗教に関して次のようなジョークがある。日本人は葬式の時は仏教徒であり、結婚式の時は神道であり、クリスマスの時にはキリスト教徒になると言われている。 要するに多くの日本人は積極的な無神論者であると言うよりは、宗教に関して寛大であるかまたは無関心である。 実際、私は最近母を亡くしたのだが、葬式は仏教式に行った。葬式の日から49日までは、毎週お坊さんに母の実家に来てもらい、法要を行った。その時には私と家内、それに母と共に住んでいた弟の一家が法要に参加した。読経の際には、お経を見せられて、ともに読んだ。漢字ばかりであまり意味はわからなかった。 お坊さんが読経した後、お坊さんの話を聞いた。 そのような様子を外から見れば、私たちは敬虔な仏教徒であるように見えるだろう。しかし実際は、私も家族もこの時以外は仏教徒であるわけではない。 しかし日本人がすべて私たちのように非宗教的なわけでもない。昔の人々、例えば私の祖母は非常に信心深い人であった。家には仏壇があり毎日お参りをかかさなかったのだ。しかし同時に神棚もあって神様にも祈っていた。つまり祖母のような日本人は、敬虔な仏教徒であり、かつ同時に神道も信じていたのだ。これを西欧で例えれば、キリスト教徒であり、同時にイスラム教徒であるようなものだ。そんなことは絶対にありえない。キリスト教もイスラム教も一神教であり、信仰に関しては非常に厳格なのだ。一方日本人は信仰に関しては非常に寛容である。 正月には多くの日本人は初詣をする。私は京都に住んでいるが、京都には多くの祭りがある。それらはほとんどが宗教的な起源を持っている。私は祭りにも行くし、神社仏閣にもよく行く。その時はお賽銭を上げ、お祈りもする。多くの参詣者も同じようにしている。彼らは家内安全などの願いをしているのだ。だからといって、彼らが経験な仏教徒であるとか、神道の信者であることを意味しない。要するに伝統的習慣なのだ。形式なのだ。 私は家の近くの下鴨神社によく行く。下鴨神社は森に囲まれていて、そこに行くことは気持ちが良い。神社仏閣には森が多いからだ。私にとって下鴨神社は一種の公園なのである。神社仏閣が安らぎの場であるということは、多くの日本人にとってもそうであろう。 歴史的に言えば日本は神道の国であった。6世紀に日本に仏教が伝わった。仏教はインドで生まれ、中国に伝わり朝鮮を経由して日本に伝わった。当時の仏教は単なる宗教というよりは文明そのものであった。当時の国家は神道と仏教を同時に受け入れたのである。実際、現在でも寺に行けばその中に神社があったりする。神仏混淆なのである。明治になって政府は神仏混淆を止めさせようとしたが、結果的には成功していない。 神道では八百万の神と言うように、神様はたくさんいる。目立った山や木、岩にも神が宿ると思っている。映画「先と千尋の神隠し」でいろいろな神様が風呂にやってくるところがある。ひよこの姿をした神様「おおとり様」が印象的であった。おしら様という大根の神様もいた。要するに神様はどこにでもいるのである。キリスト教やイスラム教のような唯一の偉大な神様というわけではない。 仏教には神様はいない。仏様である。本来は釈迦が仏様であった。その後、釈迦の弟子たちも仏様になった。さらに阿弥陀様のような想像上の仏様も現れた。要するに仏教には沢山の仏様がいるのである。その中で誰が最もえらいかは宗派によって異なる。 パトリック氏は妖怪について聞いてきた。水木しげるの漫画で日本でも妖怪が有名になってきたが、西洋でも妖怪はよく知られているようだ。私は子供の頃、2つの怖いものがあった。幽霊と蛇である。幽霊とは恨みを残して死んだ人の霊魂が形となって現れるものであるとされている。幽霊にしろ妖怪にしろなぜ存在するのか。それは昔の日本の夜が暗かったからだ。闇は恐ろしい。何が潜んでいるかわからない。わからないものは妖怪に見える。 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるが、草であっても、夜それを見て、正体が分からなければ、そこに不気味なものの存在を見てしまう。現在、妖怪がいなくなったのは、日本の夜が明るくなったからだ。つまり妖怪の住む場所がなくなってしまったのである。 パトリック氏は首相公邸に幽霊が出て、安倍首相が幽霊を怖がって引っ越さないという話があるがどう思うかと聞いた。私はそれに対して安倍首相も普通の人であるということがわかって面白いと答えた。パトリック氏はそれでは困るのではないかという。首相たるものは、外交交渉に於いては毅然としていなければならない。それが幽霊を怖がるような人物では足元を見られるのではないかという。それは確かにその通りだと思う。米国にしろフランスにしろ大統領はもっと威厳がある。本来、大統領は普通の人間がなったものだが、なった以上は雲の上の人になり、威厳があるフリをしなければならない。日本では天皇が雲の上の人であり、首相は雲の下の人なのであろう。 最後に私は宗教は人間性に根ざしたものだと言う説を紹介した。それは最近ここに書いた話である。人間の子供とチンパンジーを比較すると、チンパンジーは合理的だが、人間の子供は不合理で迷信を信ずる。宗教は二つの要素からなる。善行の勧め、つまり倫理と、迷信、つまり存在しないもの(神)への信仰である。社会性動物には倫理はあるが、迷信はない。迷信は人間の進化の過程ではぐくまれた特性なのである。人間が大きな集団を作ったときに、リーダーへの盲目的な信頼が集団を維持するのに重要な働きをするからだ。リーダーへの信頼が、偉大なものに対する信仰に転化する。宗教がこれほど人類にはびこっているのは、そのように人間は進化的に仕組まれて来たのだ。

松田 卓也

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