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コラム
迫り来るシンギュラリティと日本の未来
2018年3月25日
松田 卓也
人類は今、大きなターニングポイントにさしかかっている。遅くとも2045年、早ければ2029年に人類はシンギュラリティに突入する。人類から超人類への進化である。
シンギュラリティとは何か。正確にはテクノロジカル・シンギュラリティと呼び、日本語では技術的特異点と訳されている。シンギュラリティとは数学では変数の値が無限大になるところであり、一般相対性理論では時空の曲率が無限大になるところである。一般相対性理論でシンギュラリティの向こう側は理論的に予言できないので、その向こうは予測不能という意味で、米国の数学者バーナー・ビンジが90年代に命名した。それ以降、米国の未来学者レイ・カーツワイルが盛んにシンギュラリティを喧伝している。
カーツワイルによれば2045年には10万円程度のコンピュータが全人類の知的計算能力に匹敵する能力を持つという。同時に人工知能、生物学、ロボット技術が進んで、人間の心をコンピュータにマインド・アップロードすることができるようになり、したがって人間の肉体は死んでも精神は不死になるという。これが彼の考えるシンギュラリティである。
英国の数学者I. J. グッドは、いずれ人工知能が自分のプログラムを書き換えられることができる時点が来ると予言している。その人工知能は自分自身を改良することにより、急速に賢くなっていく。そのような人工知能プログラムが人類最後の発明で、以後は人工知能自体が科学技術を進めていく。そのような現象をグッドは知能爆発と名付けた。これもシンギュラリティのひとつの定義である。
私はシンギュラリティを人間よりはるかに知能の高い存在、超知能ができるときと定義したい。超知能ができると科学技術が爆発的に発展することにより、人類社会は大きく変わるだろう。超知能とは機械知能そのものかもしれないし、機械知能で知能増強された人間かもしれない。それを超人類とよぼう。私は後者であってほしいと考えている。
2029年はプレ・シンギュラリティ!?
カーツワイルは2029年には、人工知能がチューリンテストをパスして、人間と区別がつかなくなるという。人間のような人工知能を汎用人工知能と呼ぶことにすれば、汎用人工知能ができる時点をプレ・シンギュラリティと私は定義する。人間の大脳の計算能力は、ある評価では、京コンピュータと同等、つまり10ペタフロップスであるという。そうだとすれば、京コンピュータと同等のコンピュータが10万円で買える時点をプレ・シンギュラリティと定義しても良いだろう。カーツワイルはそれも2029年のことだとしている。
ちなみに士郎正宗のマンガ「攻殻機動隊」では、神戸にある公安9課の実行部隊である攻殻機動隊が創設されるのが2029年なのである。偶然であろうが、2029年という年は結構意味深い。
人類史の三つの転換点
近未来の人類史を考える上で、今までに大きな転換点が三つあったことを知ることが重要である。イスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは、約7万年前におきた認知革命、約一万年前に起きた農業革命、約250年前に起きた科学・産業革命がそれであるとしている。
ハラリによれば認知革命によりホモ・サピエンスは神、貨幣、国家などの、本来は実態が存在しない仮想的存在、虚構に価値を認め合うことにより、人々が協力することが可能になり、地球を支配するまでに至ったという。
つぎに農業革命により貯蔵可能な穀物を生産できるようになった。余剰農産物は富でありそれを多く持つものが金持ちになった。富を蓄積したものは権力をにぎり、支配層になり官僚、軍隊を養うようになった。こうして都市と国家が生まれた。
科学・産業革命に成功したヨーロッパ、米国、それにかろうじて乗った日本は先進国となり、乗り損ねたそれ以外の国、特にかつての超大国、超先進国の中国とインドは発展途上国に転落した。そのため中国は日本ごとき小国に蹂躙されるという悲哀を味わった。この現象を第一の大分岐と呼ぶ。
ちなみにノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ教授はこういったという。「世界には先進国と発展途上国と日本とアルゼンチンしかない」その意味は、日本は唯一、発展途上国から先進国に這い上がり、アルゼンチンは唯一、先進国から発展途上国に転落したということだ。しかし日本の指導層と国民の認識がこのままでは、日本はほぼ確実に21世紀のアルゼンチンになるであろう。そのことを以下で述べる。
現在の中国の指導層はこれを熟知して、百年国恥をそそぐために、スーパー・コンピュータ、人工知能、宇宙技術、戦闘機、空母、天文学など、ほとんどあらゆる先端技術に膨大な投資をしている。日本は指導層も国民もその認識がほとんどなく、完全に周回遅れになっている。
第四の転換点、第二の大分岐
これから2045年にかけて起きるシンギュラリティ革命は、それに乗ることに成功する21世紀の先進国と、乗り損ねる発展途上国に分かれるであろう。これを駒沢大学の井上智洋氏は第二の大分岐と名付けた。日本はどちらに乗るのか、日本の将来を決める大問題である。
以下では井上氏の分析を紹介する。農業革命以降の経済システムを農業中心経済と呼ぶ。そこでは土地と労働が基本要素である。基本的な生産物は食料である。農業経済においては、一人当たりの所得は増えない。というのは、食糧生産が増えると人口が増大してしまうからである。これをマルサスの罠と呼ぶ。
産業革命以降の工業化経済では、土地、労働に代わって資本、労働が経済の基本要素となる。この場合、生産物には機械などの生産材が含まれ、それが生産に加わるという正のフィードバックが生じ、一人当たり所得は増大を始める。その増加率は年率ほぼ2%程度である。
シンギュラリティ革命後の経済、これを完全機械化経済と井上氏は呼ぶが、そこではもはや労働は必要ない。必要なのは資本と優秀な頭脳である。私は資本主義のこの新しい姿を頭脳資本主義とよぶ。シンギュラリティにともなう科学技術の爆発的発展により、生産性が急増する。そのため経済成長率自身が増加を始める。
先に述べたユヴァル・ノア・ハラリは、以下のように分析する。農業経済において最も重要な資産は土地である。人類は、その土地の大部分を所有する王・貴族階級と、何も持たない平民に分岐した。工業経済時代で最も重要な資産は生産機械である。人類は、その機械のほとんどを所有する資本家と、何も持たないプロレタリアートに分岐した。今後最も重要になる資産はデータである。そして人類はデータのほとんどを所有するエリートとそうでない人々に分岐するであろう。後者をユヴァル・ノア・ハラリは不要階級とよんだ。
日本の過去、現在、未来
人口一人当たりの豊かさの指標を一人当たりのモノとサービスと定義する。モノとサービスを生産するのは、現在は労働者である。労働者の人口を生産年齢人口と呼び15歳から64歳の人口と定義されている。モノとサービスの生産量は生産年齢人口と生産性の積で決まる。だから生産性が世間並みであるとすると、生産年齢人口の全人口に対する割合、つまり生産年齢人口割合が大きいと豊かになり、小さいと貧乏になる。人口の絶対値が重要なのではない。その証拠にシンガポール、香港、スイス、デンマークなど人口が少ないのに豊かな国がある。
各国の生産年齢人口割合を1950-2050年の100年間に渡って図示してみると興味深いことが分かる。日本は1960年に生産年齢人口割合で世界のトップに立ち、1990年に韓国に抜かれるまで一位を保った。2000年には中国にも抜かれた。
この期間、1960-1970年に日本は高度経済成長をとげ、1980-1990年は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われたように、それこそ神武以来の繁栄を謳歌した。当時の日本人は私も含めて、21世紀は日本の世紀だとおだてられて浮かれていた。しかし1990年代に入り、バブルがはじけて、それ以降はずっと停滞を続けている。一方韓国は経済発展を遂げて、電気産業で日本を凌駕した。また中国は2010年にはGDPで日本を抜き去り、現在では日本の3倍近くになっている。日本は2011年の東日本大震災と福島原発の事故を契機として、それ以降はつるべ落としの衰退を続けている。2025年頃には生産年齢人口割合はアフリカにも抜かれる。この傾向から考えると、日本はこのままズルズルと衰退を続けて経済的大破局に見舞われる可能性がある。
生産年齢人口割合が高いことを人口ボーナスと呼び、その逆を人口オーナスと呼ぶ。日本が1980年代に栄えたのは、日本人の勤勉さなどよりは人口ボーナスのためであろう。
しかし上の議論には大きな仮定がある。生産性が変化しないか、世界標準と変わらないかという仮定である。そこで日本の衰退を跳ね返すには、その前提をひっくり返す必要がある。それを私は「ちゃぶ台返し」とよぶ。つまり労働者が仕事をする必要のない純粋機械化経済になれば良いのだ。肉体労働のロボット化、知的労働の人工知能による代替、超知能による科学技術の爆発的発展などで衰退を跳ね飛ばせるのだ。シンギュラリティに達した後は、人口はむしろ少ない方が有利になる。生産物を分配する分母が減るからである。その意味で、日本の衰退をちゃぶ台返しするためには、シンギュラリティが必要なのである。
中国一強時代の到来
2016年6月に世界のスーパー・コンピュータ(スパコン)関係者に衝撃が走った。中国がトップ500で「神威太湖之光」というとてつもないスパコンを発表したからである。その計算速度は93ペタフロップスである。ちなみに「二番じゃダメなんですか?」で有名になった日本の京コンピュータは10ペタ(1京)フロップスである。
トップ500とは、世界のスパコンの絶対性能のランキングである。2位も中国の天河2号で34ペタ、3、4位が米国で18ペタ、17ペタであった。天河2号はここしばらく、一位をキープしていた。中国がとてつもないマシンを発表しそうだというウワサが流れて、米国はそれを妨害するためにインテルチップを輸出禁止にしたのだが、中国は全てを国産でまかなったのだ。中国の自主技術開発の勝利である。スパコンの台数においても中国は米国を抜いた。中国の指導層の執念を見る気がする。
2016年の秋のランキングでは、米国は3-5位を占めた。日本は14ペタで6位に入り、京コンピュータは7位に後退した。台数では中国171機、米国171機、ドイツ31機、日本27機となっている。2017年秋のランキングでは中国の1,2位は動かず、3位にはスイスが入った(米国製スパコン)。4位にはなんと僅差で日本の暁光(PEZY社製)が入ったのだ。暁光はその後の改良で、現状では世界3位の性能を持ったのだが、残念な事に現在は機械そのものが撤去されてしまった。
トップ500はスパコンの絶対性能のランキングであるが、それとは別にグリーン500というランキングがある。これはトップ500の中で、1ワットあたりの性能を競うものである。このランキングでは2017年の秋の段階では1, 2, 3, 5位を日本のベンチャー企業PEZY社製のスパコンが独占した。今後スパコンの開発競争は、省エネ度が重要なファクターになる。その意味では日本勢は非常に健闘した。
なぜ中国や米国がスパコン競争でしのぎを削るのか?それはスパコンがハイテクの象徴であり、国力の象徴であるからだ。米中の指導層はそのことを熟知している。いっぽう日本の指導層もメディアも国民もその意識がほとんどない。最近のPEZY社をめぐる不幸な事件がこれを象徴している。日本の指導層とメディアは日本のスパコン技術を、知ってかしらずか自らの手で破壊した。これでは日本が衰退するのも仕方ないであろう。
特化型人工知能と汎用人工知能
現在の人工知能は、たしかに知能の一面は実現したのだが、まだまだ人間には及ばない面も多い。現在の人工知能は特化型人工知能とよばれ、特定の仕事しかできない。特化型人工知能は狭い人工知能とも呼ばれている。
人工知能の歴史においてこれまで画期的な事件が3つあった。1) IBMのディープ・ブルーというスーパー・コンピュータが、1997年にチェスの世界チャンピオンのガリー・カスパロフを破った。2) 2011年にIBMのスーパー・コンピュータ、ワトソンがクイズ番組「ジェパディ!」で人間のチャンピオンに勝った。3) 2016年にグーグル・ディープ・マインド社のアルファGoが囲碁で韓国のイ・セドル九段に勝った。
これらは人工知能の歴史上特筆すべき事件ではあるが、全て特化型人工知能である。つまりこれらの人工知能はチェス、クイズ、囲碁という特定目的で人間に勝ったに過ぎない。たとえばディープ・ブルーもアルファGoも、ロボットの手を動かして駒を動かすという、子供でもできることができない。つまり一つのことしかできないのである。
特化型人工知能に対して汎用人工知能という概念がある。これは人間のように常識を持ち、いちおうなんでもできる人工知能のことである。のちに述べるように汎用人工知能の開発こそがシンギュラリティの鍵となる。
超知能の出現
人間ひとり分の知能に相当する汎用人工知能ができたとしても、それだけで人類の歴史を根底的に変えるといったものではない。高い金を出して汎用人工知能を導入しなくても、人を雇えば済む話だ。
人類の特権的地位を根底的にゆるがすのは超知能の出現である。超知能とは何か?人間の知能をはるかに凌駕する存在である。はるかにとは、例えば人間の脳より数億倍も速く考えることができるとか、はるかに深く考えることができるということだ。人工知能は所詮コンピュータ上で走るソフトだから、その速さや能力はコンピュータの能力で決まる。人間の能力は、それを数億倍どころか倍増することすら難しい。しかしコンピュータの能力を倍増することは簡単である。倍増どころか数億倍にするのも原理的な問題はない。つまり超知能は汎用人工知能が一度できてしまうと、あとは資金と時間だけの問題なのだ。その気になりさえすれば、作ることができる。汎用人工知能を作ることが鍵なのである。それさえできれば、あとはスケールアップすればことは簡単だ。
私は超知能を二つに分類する。機械超知能と超人間である。機械超知能とは人工知能を搭載したコンピュータそのものである。世間で普通言われて、恐れられているものは機械超知能である。いっぽう超人間とは機械超知能で知能増強された人間である。つまり人間と機械超知能を脳・コンピュータインターフェイスで繋いだ一種のサイボーグである。超人間はポストヒューマンとも呼ばれている。私の夢は超知能を作ることである。
まず機械超知能について考える。これは映画「ターミネーター」に出てくるスカイネットが典型例である。スカイネットは殺人ロボット群を指揮して、人類を滅ぼそうと計画した。「マトリックス」では、機械超知能が人間を生きたまま容器に入れて、いわば飼い殺しにしながら、人間にシミュレーション現実の夢を見せている。
私はこの手の、超知能が意識、特に人間に対する悪意を持ち、人間と敵対するというシナリオをハリウッド的世界観と呼んでいる。このようになる可能性は0ではないが、超人間に比べて技術的な可能性は低い。超人間を作れば、その価値観は人間のままである。また人々を超知能と接続すれば、個々人が超人間になれるだけでなく、繋いだ人々の心がまさに一つになる。世界中の人々の脳を超知能で繋いだものをグローバル・ブレインと呼ぶが、それを作ることができるのだ。
超知能ができれば、科学技術が飛躍的に発展することは簡単に想像できるだろう。人工知能駆動科学と呼ぶ新しい分野が台頭して、科学実験、調査、研究などを人間と人工知能とが共同して推進する。ちなみに従来の科学は、実験・観測、理論、シミュレーション科学、データ駆動科学と進化してきた。次に来るのが人工知能駆動科学なのである。人間の研究者なら単独で年に2編も論文を書くのがせいぜいだ。大学教授で年に数十編も論文を書くのは学生を使う共同研究だからだ。ところが超知能なら年に一万編の論文を書くこともできるだろう。こんな論文を誰が読むのか? 超知能が読むのだ。人間は超知能を監督しておれば良い。ともかく超知能が作られると、原理的に解きうる問題は全て解かれて、物理的に可能な技術は全て実現できるだろう。そのことが科学・技術だけでなく経済的、政治的、軍事的に持つ意味は巨大であろう。
汎用人工知能・超知能をめぐる世界的大競争
このように超知能を作ることは、人類史に大きな影響を及ぼす。その意義を政治的、経済的、軍事的、文化的にみれば恐るべきものであることが理解できるであろう。ある国とか企業がそれを独占的に開発すれば、世界覇権が握れる。核開発、ロケット開発以上である。
世界では汎用人工知能開発競争が激しく展開されている。その最先端を行くのは米国のグーグル本体とグーグルの子会社である英国のディープ・マインド社である。ディープ・マインド社は天才デミス・ハスビスが2010年に作った会社だ。グーグルはハサビスの天才性を見込んで500-600億円で買収した。つまり彼の頭脳の値段がそれだけあるということだ。人工知能研究ではディープ・マインド社が一頭地を抜く状態にある。アルファGoが2016年に韓国の囲碁のチャンピオンを4対1で破ったことは記憶に新しいが、2017年にはアルファGoの改良版が中国のチャンピオンにも全勝した。ところがさらに改良版のアルファGoゼロは、なんとアルファGoに対して100対0で圧勝したのだ。さらに改良版のアルファ・ゼロにいたっては囲碁だけでなく、将棋でもチェスでも人類を圧倒する他の人工知能を圧倒した。もはやこの種のボードゲームでは、三千年の囲碁の歴史も形無しなのである。特化型といえ、人工知能はある特定分野で人類を完全に追い抜いた。今後、人類と人工知能の知能競争において、人類は一歩一歩と負けて行くであろう。
実際アルファロ・ゼロの進化速度はすごい。全く何も知らないゼロの状態から始めて、将棋では2時間、チェスで4時間、囲碁では8時間で、それまでの最強の人工知能を凌駕したのだ。これらの人工知能はすでに人類を圧倒していたので、結局アルファ・ゼロは将棋、チェス、囲碁で人類を短時間で圧倒した。囲碁の三千年の歴史をたった8時間で走り抜けたのだ。これを超知能といわず何と呼べようか?コンピュータのクロックサイクルは1GHz程度である。人間では100Hz程度とすると、コンピュータは人間の千万倍速く考えられる。三千年を千万分の1にすると約3時間だ。いい数字だ。
アルファ・ゼロがすごいのは囲碁だけでなく将棋、チェスに対応したこと、つまり汎用性を備え始めたことである。アルファ・ゼロの基本は強化学習である。それに深層学習を加味して、かつモンテカルロ木探索というアルゴリズムを加えて、今回の偉業を達成した。ディープ・マインド社の指導者のデミス・ハッサビスは、アルファ・ゼロは汎用人工知能の第一歩と考えている。実際、強化学習は目的追求型のタスクなら基本的になんでもこなせるのだ。
ディープ・マインド社は世界60カ国から700名近い天才、秀才を集めて集中的に人工知能研究を行なっている。その中で博士は400名もいる。その研究発表の量、質、速さは驚くべきものである。日日のニュースに接している私としては、恐ろしいと言わざるを得ない。デミス・ハッサビスはディープ・マインド社のミッションを、1)知能を解明すること、2)それを用いて、あらゆる問題を解決することと定義している。彼はこれを「人工知能のアポロ計画」と呼んでいる。ディープ・マインド社に次ぐのはグーグル・ブレインとよばれる研究集団である。さらにフェイスブック、マイクロソフト、アマゾンがこれにつぐ。ちなみにアップルは遅れている。
ダークホースとしてはパーム・パイロットを作った鬼才ジェフ・ホーキンスが私財を投じて作ったハイテク企業ニューメンタがある。さらにホーキンスと袂を分かった天才ディリープ・ジョージの作ったヴァイカリウスは百億円近い投資を集め50-200名ほどが働いている。ネットで人間と人工知能を区別する仕組みとして知られているキャプチャを彼らの人工知能は破った。つまり複雑な文字認識で人工知能は人間に並んだのである。米国にはそのほか多くのベンチャー企業が汎用人工知能開発に参入している。米国以外ではチェコやスイスの会社も汎用人工知能開発を行っている。フェイスブックの人工知能研究所はパリにある。
ここで注意すべき事は、上記の会社はシンギュラリティという言葉は使っていない。IBMに至っては人工知能という言葉すら避けている。認知コンピューティングとよんでいる。その理由は欧米に多い、キリスト教的世界観からくる人工知能に対する拒否感をおもんぱかってのことであろうと私は推測する。現在はグーグルに所属するカーツワイルだけが例外である。
中国の躍進と日本の悲惨な現状
人工知能研究では米英それにカナダが一頭地を抜いている。それに次ぐのはどこか?なんと言っても中国である。中国のグーグルともいえる百度はシリコンバレイに数千億を投資して研究所を作った。アリババ、テンセントなどのハイテク企業は人工知能専門家を多数雇い、データセンターに投資している。
中国政府は人工知能研究の重大性に気づき、数兆円の投資を決めた。中国政府が最近発表した計画では人工知能研究で3年以内に欧米に追いつき、2025年には大きな飛躍を遂げ、2030年までには中国の人工知能が世界一になるとしている。日本の指導層とメディアには欠けた、世界一になるという断固とした気概である。二番じゃダメなんですかというような気概にかけた指導者がいる国とは違う。
実際、中国の習近平主席の書棚に汎用人工知能の作り方を論じた「マスターアルゴリズム」という本があることを、その本の著者が語っている。またロシアのプーチン大統領も「人工知能分野で主導権を握るものが世界の支配者になる」と語ったという。
日本ではスパコンのハードに関しては先に述べたPEZY社を創始した齊藤元章氏が米中を相手に健闘した。その自主技術は1)PEZYチップという世界にないマルチコア・チップ、2)液浸冷却技術、3)3次元積層磁界結合メモリ、と世界に誇るものであった。2に関しては中国がすでに技術獲得に触手を伸ばしている。3ができれば、コンピュータの速度は画期的に上がるだろう。ともかくこれらは日本が世界に誇る自主技術なのだ。
しかしご存知のように地検特捜部が齊藤氏を逮捕することで、日本の支配層とそれに追従するメディア、知識人、さらにそれらに影響された国民は、日本が世界に誇るべき天才と自主技術を自分の手で葬り去ったのである。このままいけば、2018年には日本がスパコンでトップ500の一位になるはずであった。また2019年には京コンピュータの百倍の1000ペタフロップス機(エクサスケーラー)を作る計画であった。この計画も完全に潰えた。
現状では今年にも、中国とアメリカが200-300ペタフロップス機を出す。2020年までには中国も米国もエクサスケーラー機を作る計画を立てている。しかし難航しているらしい。うまく行けば日本が勝つことができたのだ。だから今回の事件で一番喜んだのはなんといっても中国であろう。次が米国であろう。なんという利敵行為、オウンゴールなのであろうか。権力がマスメディアにわざと流すニュースを無批判に信じて同調する知識人、国民が多い現状を憂うる。懐疑的精神がほとんどない。私は日本の指導層とメディアと国民の科学技術の現状に対する無知に絶望する。
私はこの事件の一報を聞いた時に、ああ、これで日本は終わると思った。今すぐにではないだろう。現在の日本は少子高齢化により着実に衰退の一途を辿っている。しかしまだ発展途上国に転落したわけではない。日本人はいわば茹でガエルなのである。現状はまだそれほど悪くないので、暖かい風呂に浸かって良い気分にひたっている。しかし日本の衰退は着実である。多分2030年頃には、このままの経済は成り立たなくなり、茹で上がるのである。
黒船が到来したとき日本人は泰平の夢に酔いしれていた。だれも徳川幕府は未来永劫安泰だと思っていた。黒船到来から十数年で徳川幕府が滅びるとはだれが想像しただろう。日本が今から十数年後に欧米と中国にハイテク競争に敗れて発展途上国に転落したとき、実は2017年が日本の終わりの始まりであったことに気づくものはいるだろうか?
日本終了を逆転する道は高度な人工知能化とロボット化による省力化、生産性向上であることはすでに述べた。そのためのキモは人工知能研究と超知能用ハードの開発である。
まず人工知能ソフト研究における日本のお寒い状況を説明しよう。人工知能の研究機関の世界ランキングにおいて、日本で100位以内に入っているのは60数位の東大だけである。インパクトを与えた人工知能論文のアジアのランキングでは、中国が15編、シンガポールと香港が3編、マレーシアが2編、そして日本が1編である。なんと日本はマレーシアの後塵を配しているのである。中国と日本は15対1なのである。日本政府も実は最近、そのことに気がついてあわてて予算措置を始めた。しかしせいぜい数百億円であり、中国の数兆円とは比較にならない。
齊藤元章氏の夢
これらはいずれもソフト開発であるが、ハード面で脳型コンピュータの開発では現状ではIBMが先行しているが、ヨーロッパでも多くの大学が研究している。
私が齊藤元章氏に注目したのは2015年の夏に彼をインタビューした時である。齊藤氏は1000億コア、100兆インターコネクトをもつ脳型コンピュータを2025年頃までに作るという構想を明らかにした。皆さんの使っているPCはせいぜい2-4コアである。PEZYチップですら現状は2000コア程度である。それが1000億とは! この数字は、人間の脳のニューロンの個数が約1000億個、ニューロン同士を結合するシナプスの数が100兆であるところから来ている。つまり人間の脳をそっくりシリコンで作ろうというのだ。
それなら単に人間ひとり分ではないだろうか? いや、コンピュータのクロック速度は人間の1千万倍から10億倍速いのである。つまりこの齊藤マシンでできた人工頭脳は人間の1千万倍から10億倍の速さで考えることができるのだ。さらにど肝を抜くことは、そのコンピュータの大きさが1リットルに満たない体積に収めることができるというのだ。だからさらに少し大きくするだけで、全人類に匹敵する知的処理能力を持つ脳型コンピュータを2025年までに作れるというのだ。
この話を聞いた人は、普通なら単なる妄想として退けるであろう。ところが齊藤氏は2014年にスーパー・コンピュータをたった7ヶ月で作り上げた実績があるのだ。さらに翌年には4ヶ月でさらに2台作った。この実行力と実績を私は買ったのだ。彼ならやれると思った。私は、齊藤氏は天才であると確信した。でもアインシュタインのような理論家はだの天才ではなく、たとえばエジソン、ライト兄弟のようなモノづくりの天才である。それまで世界になかった新しい画期的な機械を作る天才である。現在で言えばスティーブ・ジョブスである。齊藤氏は本来は放射線科の医者であるから、もちろん頭は良いのだが、私はその実行力と夢を買ったのである。
そこで私は自分の夢を齊藤氏に託すことにした。ハードは齊藤氏が作る。汎用人工知能の基礎となるソフト、それを私は大脳新皮質のマスターアルゴリズムと呼んでいるが、それを私や日本の研究者が一致して開発する。実際、日本には「全脳アーキテクチャ・イニシャティブ」という、汎用人工知能を開発しようという組織があるのだ。そして2025年にはできるはずの齊藤マシンに搭載する。超知能の原型の誕生である。人間が大人になるには20年近くの教育が必要なように、汎用人工知能といえども生まれた時は赤子のようなものだ。つまり汎用人工知能にも教育が必要なのだ。教育期間を4年と見込んで2029年には超知能が誕生するのである。つまりシンギュラリティを2045年ではなく、2029年に日本で起こせるはずであったのだ。その夢も今回の事件で潰えた。実に残念なことだ。
天才が世界を変える
兎にも角にも優秀な頭脳がこれからの未来を決めるのである。まさに頭脳資本主義の幕開けである。天才が今後の世界の動向を決めるのだ。そのことはアップルを創始したスティーブ・ジョブスを見るとわかる。電車に乗るとほとんどの人はスマホ画面を覗き込んでいる。これは日本だけの現象ではない。世界中どこでもそうなのだ。つまりジョブスは世界の人間の行動パターンを一人で変えてしまったのだ。
人間一人の力はたいしたことはない。ところがアレキサンダー大王、チンギス・ハン、ナポレオンなどの個人は、善かれ悪しかれ世界に大きな影響を及ぼした。これらカリスマとリーダーシップを備えた天才的人物は、多くの人を組織できるからである。普通の人間を組織して大きな仕事を達成する、これが真のリーダーである。
ニュートンやアインシュタインのような科学天才は、上記の組織の天才とはタイプが違う。個人的な天才である。しかしその天才的頭脳が世界の歴史を変えたのは事実である。いずれにせよ天才が世界の歴史を動かすのである。
齊藤氏はその意味ではアインシュタイン型よりはカリスマを備えたリーダー型の天才である。実際、彼は東大で医師をしているときに起業したのだが日本では認められず、彼の才能を見込んだ米国の教授の援助で、シリコンバレイで医療機器メーカーを創業し、300人規模のベンチャーに育て上げた。
しかし2011年の東北大震災の悲惨な状況を米国のテレビで目撃して、それまで自分を育ててくれた日本に恩返しするのだと決心して日本に戻りPEZY社を創始した。そして多くの優秀な技術者を組織してたくさんのベンチャー企業をたちあげた。そしてそれらは100人規模にまで成長した。古い言葉だが愛国者なのである。さてこれからというときに今回の事件である。
私は事件の内容について争うつもりはない。ただ言える事は、日本は異端の天才を許さないということである。出る杭は打つ、これが日本の特質だ。たとえば織田信長という天才は、明智光秀という既得権益層を代表する秀才に殺された。今後の世界は頭脳資本主義でまわる。天才を許容しない日本に明るい未来はない。
齊藤氏が私淑する吉田松陰もそうだ。吉田松陰はこう言った。「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし、故に、夢なき者に成功なし」その松陰はペリー提督の黒船に乗りこみ米国行きを懇願したが拒否された。それもあり、松陰は安政の大獄の一環として井伊直弼に弾劾されて刑死した。そのとき吉田松陰を調べた役人の名前を現在、誰が覚えているであろうか。歴史の闇に消えたはずである。
齊藤氏の夢を妄想と批判する知識人がいる。夢と妄想の違いは実行力のあるなしである。私は齊藤氏の実行力を評価する。私は講演で齊藤氏のことを紹介するときいつも松陰を引き合いに出した。齊藤氏には夢、理想、計画、実行、成功そのすべてがあるからだ。ところが不幸なことに、松陰は刑死し齊藤氏は社会的に抹殺されるというところまでそっくりなのだ。さらなる皮肉は、齊藤氏を見出した米国の教授はペリー提督の末裔なのだ。
さらに皮肉な話がある。齊藤氏の先祖筋に玉木信介海軍少尉候補生という人がいた。玉木は日露戦争が勃発したときに戦艦三笠に配属された。玉木と同郷、同期に山本五十六少尉候補生がいて、装甲巡洋艦日進に配属された。実は海軍兵学校では玉木が山本より卒業順位が上であった。だから玉木が旗艦に配属され、山本が日進に配属されたのであろう。旧軍では席次が昇進を決定する。山本が後に海軍大将・元帥になり、また同期で海軍大将になったものは4人もいる。だから玉木は海軍大将になってもしかるべき人物であった。しかし我々は玉木海軍大将を知らない。なぜか? 実は、日露戦争の後、三笠は佐世保で謎の爆沈事故を起こし、玉木はその時に亡くなったのだ。この先祖の事故死という不幸と齊藤氏の社会的抹殺という不幸は偶然の一致であろうか?
再度書くが天才を許容しない日本に明るい未来はない。
参考文献
・「人類を超えるAIは日本から生まれる」松田卓也著、廣済堂出版
この第7章に私と齊藤氏の対談が収録されている。
研究不正に対する京都大学iPS 細胞研究所と理化学研究所の対照的な危機管理:山中伸弥氏と野依良治氏の本質的相違
2018年1月28日
高橋昌一郎
東京大学名誉教授の黒木登志夫氏は、「研究不正大国」になってしまった日本の科学界に警鐘を鳴らしている。2004年から2014年にかけて、11年間に撤回された2590の科学論文の国別分布を算出した結果、日本はワーストランキング第5位になっているという。ワースト第1位から順にインド、イラン、韓国、中国、日本と続き、「欧米の国々は、日本の半分近くか、それ以下の数値でしかない。アジア、中東の国がワースト上位を占めているのは恥ずかしい限りである。アジアは、まだ科学の精神が根づいていないと思われても仕方がない」と述べている(黒木登志夫『研究不正』中公新書)。
2014年といえば、「世界三大研究不正」の一つに数えられるようになったSTAP事件の発生した年である。2014年1月28日、『ネイチャー』誌にSTAP論文が発表された直後、理化学研究所の発生・再生科学総合研究センターでは華々しい記者会見が行われ、論文の筆頭著者だった小保方晴子研究員が割烹着を着て「さながらアイドルの撮影会」が行われた。
ところが、2月6日には米国の研究者専用の「パブピア(PubPeer)」に最初の疑義が提示され、2月中旬になっても、世界各国の研究室では、簡単に作製できるはずのSTAP細胞を再現できなかった。これらの疑義に対して、理研は即座に、画像データの取り違えのような「単純ミス」はあったとしても「研究成果そのものについては揺るがない」と発表した。この時点で、なぜ正式に調査もしないで「揺るがない」と言い切ったのか。ここで理研は、最初の一歩を大きく踏み外したのである。
3月5日、理研が「STAP細胞作製プロトコル」を発表すると、ネットには「STAP細胞の非実在について」という内部告発が書き込まれた。「なめてますね、これ。何と言って、理研の対応です。STAP論文についての手技解説の発表、だそうですが、これは無意味です。なぜなら、STAP細胞など存在しないから。間違った書き方をしたとか論文制作の作法のことではありません。『存在しない』のです。私は証拠も提供しました。しかし、受け入れられなかったようです」!
すでに初期段階から、ここまで明確な内部告発があったにもかかわらず、「特定国立研究開発法人」に認可される目論見だった理研の上層部は、真実を見ようとはしなかったのである。
その後もネットの「集合知」による疑義の指摘は増加する一方で、ついに耐えきれなくなった理研は、調査委員会を発足させた。しかし、この委員会は、主要メンバーを理研内部者で固め、なぜか最初から疑義を6点だけに絞るという偏った方針で、事件の幕引きを急ぐことだけが目的としか思えないものだった。この委員会の委員長自身、過去の論文の画像データ「改ざん」を指摘されて辞任するというオマケ付きだった。
3月14日、理研理事長の野依良治氏は「未熟な研究者が膨大なデータを集積し、ずさんに無責任に扱ってきたことはあってはならない」と記者会見で述べ、「共同研究論文の作成の過程において、重大な過誤があったことは、甚だ遺憾です」と、まるで他人事のような見解を公表して、関係者を呆れさせた。
調査委員会は、小保方氏の「画像の捏造・改ざん」の研究不正だけを報告して収束を図るつもりだったようだが、これに対して小保方氏は、弁護団を雇って「不服」を申し立てた。さらに4月9日にはテレビ局を集めて記者会見を開き、「STAP細胞はあります」と断定、「200回以上」作製に成功しているとも述べた。その一方で、「私の不勉強、不注意、未熟さゆえに論文にたくさんの疑義が生じ」たことに対しては「心よりお詫び申し上げます」と謝罪して、泣き顔を見せた。
小保方氏は、「私は決して悪意をもってこの論文を仕上げたのではない」という論法で、世間の同情を集めた。この「未熟だが悪意はない」という路線に沿って、弁護団は、「陽性かくにん!よかった」とか、稚拙なマウスの絵やハートマークのある実験ノートの一部を開示した。
この頃から、政治家や宗教家、評論家やニュースキャスターが、公然と小保方氏を擁護するようになった。小保方氏は「誹謗中傷に貶としめられた天才科学者」であり「彼女の才能を認めないことは日本の損失」であるとか、STAP事件は「成功した若い女性に対する不当なバッシング」であり「STAP細胞さえあったら大逆転」などといった妄想が日本中に蔓延した。私は、後に連載していた『週刊新潮』誌上で、これらの小保方氏周辺に生じる「お花畑現象」を分析し、「STAP事件は現代のオカルト」だと位置付けた(高橋昌一郎『反オカルト論』光文社新書)。
8月5日、小保方氏を指導する立場にあった副センター長の笹井芳樹氏が、自殺した。9月3日、理研はようやく重い腰を上げて、STAP事件の本格的な真相究明を目的とする「研究論文に関する調査委員会」を立ち上げた。国立遺伝学研究所所長の桂勲氏を委員長として、外部委員7名から構成された委員会は、ゲノム解析を中心とする科学的調査を行い、12月25日に「STAP幹細胞は調べた限りでは、すべて既存のES細胞に由来している」と結論付け、「STAP細胞がなかったことはほぼ確実」と断定する報告書を提出した。
この結果を察知したのか、小保方氏は、12月15日に理研に退職願を提出した。野依理事長は「前途ある若者なので、前向きに新しい人生を歩まれることを期待しています」と「お花畑」のような祝辞を述べて、12月21日付で小保方氏の退職を承認している。
2015年2月、理研はSTAP事件関係者の処分を発表した。センター長だった竹市雅俊氏は「譴責」、プロジェクトリーダーだった丹羽仁史氏は「文書による厳重注意」とした。さらに小保方氏は「懲戒解雇相当」、若山照彦氏は「出勤停止相当」としたが、すでに二人は理研を退職していたため、具体的な効力は何もなかった。
2015年3月、野依理事長は任期を3年残して辞任した。記者会見では、STAP事件の引責辞任ではないことを強調し、「技術的な研究をやるような所ではですね、その組織の長が引責辞任するという例は、私は皆無だと思っています」と述べている。STAP事件への対応について「若干の間違いはあったが、その場その場で適切な判断をしてきた」と自画自賛し、2014年10月に給与の一部を自主返納したことで、すべての責任は取ったと主張した。
しかし、理研の改革委員会委員長を務めた東京大学名誉教授の岸輝雄氏は、「野依理事長の責任は重い」と指摘している。「こうした事態を招いた理研の責任は重い。一連の提言は野依良治理事長が決断すればすぐに実行できたはずなのですが、あまりにも対応が遅かった。組織を守る気持ちはわかりますが、ある種の怠慢であり、謙虚さに欠けていたと感じざるをえません」(『週刊朝日』2014年8月22日号)。
さて、2017年7月3日、京都大学iPS 細胞研究所の相談室に、同研究所特定拠点助教の山水康平氏が筆頭著者である論文に疑義が寄せられた。相談室は、研究所に保存されていた生データ(実験機器の測定値のファイル)から論文のグラフの再構成を試みたが、論文通りには再現できなかった。9 月11 日、学内委員3名と学外委員3名による部局調査委員会が結成された。この委員会は、論文に用いた電子ファイルと実験ノートすべての提出を関係者に求め、2018 年1 月9 日までに合計16 回の関係者へのヒアリングを行った。
調査の結果、論文を構成する主要図6個すべてと補足図6個中5個において「捏造と改ざん」が認められた。「これらの捏造または改ざん箇所の多くは、論文の根幹をなす部分において論文の主張にとって重要なポイントで有利な方向に操作されており、論文の結論に大きな影響を与えていると認められる。かつ、論文の図作成過程において、正しい計算方法に基づき正しい数値を入力するという基本事項が徹底されていなかった」ことが明らかになり、掲載誌へ論文撤回の申請を行った(「京都大学における研究活動上の不正行為に係る調査結果について」)。
レイモンド・スマリヤン追悼
2017年2月11日
高橋昌一郎
インディアナ大学名誉教授の論理学者レイモンド・スマリヤンが、2017年2月6日に97歳で逝去した。彼は、史上稀にみる天才だった。
イギリスの科学編集者ハンナ・オズボーンが2月10日に配信した記事によれば、スマリヤンの義理の姪アリソン・フレミングが、2月7日に「叔父レイモンド・スマリヤンは、昨日97 歳で死去しました。彼は、華麗なる論理学者(『この本の名は?』の著者)・数学者・音楽家・手品師であり、あらゆる意味で自己の知性に挑戦し続けた人物でした」と公表したという。(Hannah Osborne, “Mathematician and puzzle-maker Raymond Smullyan dead at 97,” International Business Times, Feb. 10, 2017.)
スマリヤンといえば、「哲学者、論理学者、数学者、音楽家、手品師、ユーモア作家、そして多彩なパズル創作家の融合した、唯一無二の人物」(マーティン・ガードナーによる紹介)である。彼の著作は世界各国で翻訳され、日本でも15冊以上が翻訳されている。
世界的ベストセラーとなった『この本の名は?:嘘つきと正直者をめぐる不思議な論理パズル』(川辺治之訳、日本評論社)、パズルからゲーデルの定理へ読者を誘う『スマリヤンの究極の論理パズル:数の不思議からゲーデルの定理へ』(長尾確・長尾加寿恵訳、白揚社)、「80歳以下の子供たち」を対象とした『パズルランドのアリス』(市場泰男訳、早川書房)、推理小説仕立ての『シャーロック・ホームズのチェスミステリー』(野崎昭弘訳、毎日コミュニケーションズ)、一転してタオイズムを説く『タオは笑っている:愉快な公案集』(桜内篤子訳、工作舎)、哲学問題をサイエンス・フィクション的に表現した『哲学ファンタジー』(拙訳、ちくま学芸文庫)など、彼が一般向けに書いた啓蒙作品のタイトルを眺めるだけでも、スマリヤンが「現代のルイス・キャロル」と呼ばれる所以がおわかりいただけると思う。
もちろん、彼の専門書にもさまざまな創意工夫が凝らされていて、『記号論理学』(拙監訳・川辺治之訳、丸善)、『数理論理学』(拙監訳・村上祐子訳、丸善)、『ゲーデルの不完全性定理』(拙訳、丸善)などをご参照いただければ、誰にでも理解できる論理パズルから出発しながら、命題論理と述語論理、完全性定理と不完全性定理への道筋を明快かつ厳密に示すスマリヤンのシンプルかつ独創的な方法論をご理解いただけると思う。
以下、スマリヤンの自伝『天才スマリヤンのパラドックス人生:ゲーデルもピアノもマジックもチェスもジョークも』(拙訳、講談社)から、あまりにも自由奔放に生きた天才の奇想天外な「笑える自伝」のエピソードをご紹介しよう。
そもそもスマリヤンが最初に論理学に興味を抱いたのは、6歳のエイプリル・フールだったという。その日の朝、風邪で休んでいたレイモンドのベッドの側に、10歳年上の兄エミールが来て、次のように言った。
「レイモンド、今日は、エイプリル・フールだ。いくら嘘をついてもいいんだよ。だから、今までになかったくらい騙してあげるからね。」
レイモンドは一日中待っていたが、兄は一向にやって来る気配がない。その夜、いつまでも起きているレイモンドに向かって、「どうして眠らないの?」と母親が尋ねた。
「エミールが僕のことを騙してくれるのを待ってるから……」とレイモンドは答えた。
母親は、すぐにエミールを呼んで言った。「お願いだから、早くレイモンドを騙してあげてちょうだい。」
そこで兄弟は、次のような会話を交わした。
「今までになかったくらい騙されるのを待っているんだよね?」
「うん」
「でも僕は、今日一日、レイモンドを騙さなかった。」
「うん」
「でもレイモンドは、今までになかったくらい騙されると思ってた。」
「うん」
「ほーら。ちゃんと騙してるだろう? 今までになかったくらいにね!」
電燈が消えた後も、レイモンドはずっとベッドの中で考えたそうだ。自分が騙されなかったのであれば、自分の期待通りにならなかったという意味で、自分は騙されたことになる。しかし、自分が騙されたのであれば、逆に自分の期待通りになったという意味で、自分は騙されなかったことになる。結局、自分は騙されたのだろうか? それとも、騙されなかったのだろうか?
さて、スマリヤンは幼児期から音楽に天才的な才能を示し、音楽教育で知られるニューヨークのルーズベルト高校に進学した。彼は、著名な音楽家たちからピアノとバイオリンを学ぶ一方で、数学の授業では演繹的な推論の美しさに魅了され、抽象代数学や集合論を独学で勉強するようになる。
しかし、スマリヤンは、それ以外の高校教育には順応できなかった。彼は、葉巻を吸ったり山高帽を被ってふざけたりした上、先生よりも知識があることをひけらかすのが常だった。結局、彼は何度も放校処分となり、高校を卒業することはなかった。
その後、大学検定試験に合格したスマリヤンは、24歳でウィスコンシン大学に入学、大学1年生でありながら、数学だけは大学院レベルの授業を受講した。
さらに、彼はシカゴ大学に移籍し、ルドルフ・カルナップから哲学を学ぶ。スマリヤンは、ルーズベルト大学のピアノ講師として授業料を捻出していたが、腕の腱鞘炎によって、コンサート・ピアニストになる夢を諦めざるをえなくなる。そこで、今度は得意な手品の才能を活かして、ナイトクラブのテーブル・マジックで授業料を払うようになったが、それでも生計には不十分だった。
「私は、どうにかして収入を補わなければならなかった。そこで私は、セールスマンの仕事に就くことに決めた。私は、掃除機販売会社に応募して、入社面接を受けた。その中に、次のような質問があった。『あなたは、時々小さな嘘をつくことに反対しますか?』
もちろん私は、嘘をつくことには反対だった。とくに私は、セールスマンが商品を誤解させるような嘘をつくことには、大反対だった。しかし、そのときに私が考えたのは、もし正直に反対だと答えたら、仕事は得られないだろうということである。そこで私は嘘をついて、『いいえ』と答えた。
面接が終わって家に帰る途中で、私は次のように考えた。私は、この会社に対して、時々小さな嘘をつくことに反対したのだろうか? 私は『いいえ』と答えた。しかし、この特定の嘘をつくことに対して私は反対していないわけだから、私はすべての嘘に反対しているわけではないことになる。したがって、私が面接で述べた『いいえ』という答えは、嘘ではなく、真実だったのではないか!」
35歳になったスマリヤンは、卓越した数理論理学の論文を書いて学界から注目され、未だ正式に大学を卒業していなかったにもかかわらず、ダートマス大学で数学を教えることになった。
この翌年、シカゴ大学は、彼がダートマス大学で教えた科目に特例として単位を与え(教えることができる以上、もちろんその科目を十分理解しているはずだという理由によって!)、スマリヤンは、36歳で大学卒業資格の学士号を取得した。その後、彼はプリンストン大学大学院に進学、40歳にして数理論理学専攻の博士号を取得した。指導教授は、アロンゾ・チャーチだった。
「何人かの大学院生が、私に尋ねた。『これからは「博士」と呼びましょうか?』私は、これまで一度もこのような称号を生真面目に受け取ったことはない。このときも、直立不動の姿勢を取って、次のように答える誘惑に打ち勝てなかった。『いや。これからは、私のことを「将軍」と呼びたまえ!』」。
スマリヤンは、記憶している限りずっと、女性が大好きだったそうだ。小学校時代のスマリヤンは、何度も校長室に呼ばれた。なぜなら彼は、少女たちにキスして回っていたからである! 当時の彼の親友は、スマリヤンが生まれて最初に発声した単語は「ガール」に違いないと言って、彼をからかったという。
学生時代、スマリヤンが大好きだったいたずらは、誰かとデートするたびに、「僕はまったく君に触らずに、キスすることができる。本当だと思うかい?」と尋ねるものだった。
もちろん相手は「そんなことできるわけがないでしょ」と答える。そこでスマリヤンは、できる方に1ドル賭けると言うのである。そして、彼は相手の女性に目を閉じるよう頼んで、彼女にキスして叫ぶ。「僕の負けだ!」
プリンストン大学大学院で博士号を取得したばかりの40歳のスマリヤンは、魅力的な女性ピアニストと出会った。初めて彼女とデートした日、彼は、あることを発言するので、もし彼の発言が正しければ、彼女にサインしてくれるように頼んだ。彼女には、断る理由がなかった。そこで、彼は言った。「もし僕の発言が間違っていたら、君は僕にサインしない。いいね?」彼女は、この発言にも同意した。そしてスマリヤンは、あることを発言した。この発言によって、彼女はスマリヤンにキスしなければならなくなったのである!
さて、彼は何と発言したのだろうか?
実はスマリヤンは、彼女に次のように言ったのである。「君は、僕にサインもしないしキスもしない。」もしこの発言が真であれば、彼女は最初の約束にしたがって、彼にサインしなければならないが、そうすることによって、この発言は偽になってしまう。つまり矛盾する。よって、この発言は真ではなく、偽でなければならない。つまり、「サインもしないしキスもしない」という発言が偽なのだから、彼女は彼に少なくともどちらか1つは与えなければならない。ところが、もし発言が間違っていたら、彼女はサインしないことにも同意した。したがって、彼女は、スマリヤンにキスしなければならなくなったのである!
ここでスマリヤンは、キスする代わりに、彼女が勝てば帳消しだが、負ければ2倍になる賭けを提案した。彼女は、すぐにキス2回の借りとなり、キス4回の借りとなり、それから2倍、さらに2倍となって、彼女のキスの借りは、膨大にエスカレートし続けた。
自伝を書いた当時83歳のスマリヤンは、次のように述べている。「それで、どうなったかって? 私たちは、結婚したよ! そして私たちの結婚は、43年間続いている。」
1961年、42歳のスマリヤンは、ニューヨーク市立大学教授に就任した。この大学にはスマリヤンとマーティン・デイビスという2人の論理学者がいたが、デイビスの授業を受けていた大学院生は、次のような思い出を語っている。
ある日、デイビス教授が「スマリヤンの定理」を証明しようとしていたところ、廊下から大声でふざけている声が聞こえてきたため、講義の声が聞き取れなくなった。ついに怒ったデイビスは、ドアを開けて「授業中だ! 静かにしなさい!」と怒鳴った。ドアの外に見えたのは、スマリヤン教授が恥じ入って頭を下げている姿だった。そして、デイビス教授は、「スマリヤンの定理」の証明を続けた……。
論理学に関するスマリヤンのジョークには、次のようなものがある。退職してカルチャー・スクールに入学した老人が、何を学ぶべきかとアドバイザーに尋ねた。アドバイザーは答えた。
「何といっても論理学ですな。」
「論理学とは、何ですか?」
「論理学を学ぶことによって、さまざまな事実から特定の事実を推論することができるようになります。たとえば、あなたは芝刈り機を持っていますか?」
「はい」
「そのことから私は、あなたの家には芝生があると結論します。そうですね?」
「はい、私の家には芝生があります。」
「ということは、あなたは家を持っているでしょう?」
「はい、私は家を持っています。」
「そして、あなたは結婚している。」
「はい、私には妻がいます。」
「そして、お子さんも?」
「はい、私には子供たちがいます。」
「そのことから私は、あなたがゲイでない男性だという結論を下します。」
「たしかに私は、ゲイでない男性です。なんてことだ、論理学っていうのは、すごい! 私が芝刈り機を持っているという事実から、あなたは私がゲイでない男性だという事実を導くことができた。これはものすごいことだ!」
この会話の後、彼はホールを歩いてきた友人と出会った。老人は、これから論理学を勉強するつもりだと友人に話した。
「論理学って、何だね?」と友人が尋ねた。
「論理学を学ぶことによって、さまざまな事実から特定の事実を推論することができるんだよ。たとえば、君は芝刈り機を持っていたね?」
友人が答えた。「いいや。」
すると、老人は叫んだ。「わかった。お前はゲイだな!」
1982年、スマリヤンはインディアナ大学へ移り、ダグラス・ホフスタッターと同僚になる。1992年には、同大学を退官し名誉教授となった。その後スマリヤンは、執筆に専念するようになり、97歳の最期を迎えるまで、元気に新作を書き続けた。
彼の作品に共通する特徴は、一言で言うと、堅苦しい「論理」を「ジョーク」で解放して、読者の知的好奇心を存分に刺激してくれる点である。彼は、偏狭なアカデミズムを笑い、見栄っ張りな権威を笑い、頑固に凝り固まった信条を笑う。
スマリヤンの自由奔放な生き方が、どれだけ私を勇気付けてきてくれたことか、筆舌に尽くし難い。残念なことに、諸般の事情により、彼の自伝『天才スマリヤンのパラドックス人生』は絶版となっているが、再版の機会があれば、大いに読者を得ることができると思う。出版関係者各位に、ぜひお願い申し上げたいところである。
機会があれば、読者には、ぜひスマリヤンの作品を楽しんでいただきたいと思う。肉体としてのスマリヤンは滅びても、スマリヤンの精神は永遠に生き続けるに違いない!
人間の非合理さには合理的な理由がある
2016年9月14日
松田卓也
要約
ジャパンスケプティックスの目的は疑似科学を批判的に研究することである。疑似科学とは科学を装った非科学であり、非合理的、非論理的な考え方である。合理的、理性的と思われている人間が、なぜこのような非合理的な考えに取りつかれるのだろうか? それには合理的な理由がある。人間の頭脳はそのようにできているのだ。
疑似科学に限らず、人間の考えには錯覚、認知バイアス、偏見、思い込み、レッテル貼りなどの非合理な考え方にあふれている。なぜか? それは人間の大脳は迅速な判断をするための機構が組み込まれているからだ。この合理的な仕組みが非合理な思考の原因である。本論では、そのような人間の非合理性の起源を神経科学、人工知能に基づいて論じる。
思考の二重過程理論
人間の思考には二つのモードがあることが知られている。これを思考の「二重過程理論」と呼ぶ。それに関しては「感性の限界」(高橋昌一郎、講談社現代新書)に詳しく解説されている。二重過程理論はいろんな学者がいろんな文脈で論じているが、基本的な考え方は同じである。人間の大脳にはモード1とモード2、あるいは「自律的システム」と「分析的システム」と呼ぶ二つの思考のモードがあるというのだ。
自律的システムとは外部からの刺激に対して自動的に迅速に処理するシステムで、意識的な制御が難しいシステムである。それに対して分析的システムとは言語や規則に基づいて処理を行うシステムである。もっと一般化して前者を感性とか直感的思考、後者を論理的・合理的思考と呼ぶこともできるだろう。行動経済学を創始したことで有名な心理学者のカーネマンは「速い思考」と「遅い思考」という言葉を使っているが、基本的に同じような分類だ。
自律的システムの例として、高橋は美味しいお菓子でもウンコの形と色をしていると食べられないとか、一度吐き出したツバは飲み込めないなどの例を上げている。合理的、理性的、分析的に考えれば、なんということもないのだが、体が受け付けないのである。なぜそんなことが起きるのか。実はそれには生物としての人間の生存に重要な意味がある。不潔な(あるはそう見える)ものを食べると体に悪いと脳に刷り込まれているのである。つまり、非合理に見える行動にも合理的な理由があるのだ。本論では、思考の二重過程が生じる理由を、人工知能と神経科学の見地からせまる。
汎用人工知能
人工知能には囲碁や将棋などに特化した特化型人工知能(専用人工知能)と人間のように一応は何でもできる汎用人工知能がある。現状の人工知能は全て特化型であり、汎用人工知能はまだ存在していない。汎用人工知能を作ることが、人工知能研究の一つの目的である。人間の知能を遥かに凌駕した汎用人工知能を超知能と呼ぶが、それが完成すると人類の歴史に大きな影響が及ぶことが予想される。そのため、世界では現在激しい超知能開発競争が展開されている。超知能を作ると、世界覇権が握れるのである。
汎用人工知能開発にはいろんな方向性がある。その一つに人間の大脳新皮質を模倣するというアプローチがある。人間の大脳新皮質は、我々が知るかぎりにおいて汎用人工知能が実現している唯一の例である。それを研究して、それを真似るというアプローチはリバース・エンジニアリングと呼ばれている。例えば、空を飛ぶという目的を立てた時に、鳥の飛び方を研究してそれを真似るというアプローチである。ただし、鳥そっくりのものを作るのが目的ではなく、鳥の研究はあくまでも飛行の原理を知るためである。実際、出来上がった飛行機は鳥とはほとんど似ていない。
汎用人工知能研究においても、人間そっくりなロボットを作るというアプローチもあるが、もう一方で人間の思考形態を模倣しながらも、人間よりはるかに強力な機械知能を作るというアプローチもある。鳥を作るのか飛行機を作るのかの違いである。私は後者を選ぶ。そのためにはまず人間の脳を勉強する必要がある。脳のなかで働くアルゴリズムを解明して、それをシリコンチップの上で実現するのだ。その勉強の中で、人間の思考の非合理性の原因が見えてきたのだ。
大脳新皮質の階層と脳の働き
動物の脳のなかで哺乳類の脳が他の生物、例えば爬虫類などにくらべるとずっと進化している。哺乳類の中でも特に人間の脳は発達していて、我々が知るかぎり宇宙の中で最も複雑な構造と言われている。
脳は様々なパーツからできている。そのなかで大脳と小脳がよく知られている。そのほかにも中脳、間脳もあるが、本論で重要なのは大脳である。大脳は大脳新皮質、大脳基底核、海馬、扁桃体など様々なパーツからできている。大脳基底核は運動の制御、海馬は記憶の固定、扁桃体は情動をつかさどる。人間の思考にとって最も重要なパーツは新皮質である。新皮質は厚みが2ミリメートル、面積は新聞紙を二つ折りにした程度の薄い膜である。それがシワシワになり頭蓋骨の中に畳み込まれている。狭い頭蓋骨の中でできるだけ広い面積を占める工夫である。
新皮質は52のブロードマンの領野とよばれる部分に分かれていて、それぞれが特定の機能を果たしている。最近の研究ではもっと多くの領野に分けられている。後頭部には視覚関係の複数の領野があり、これが新皮質のかなりな部分を占めている。人間にとって視覚が極めて重要だからだ。耳の付近には聴覚野、頭の頂点付近には触覚野(体性感覚野)、その前方に運動野がある。言語は左脳の側面にある複数の領野が担当する。高級な思考は額のあたりの前頭葉にある領野で行われている。これらの領野は上下の階層構造をなしている。
視覚野はV1, V2, V3, V4その他の領野に分かれている。網膜から来た視覚情報は、間脳にある視床を中継点として、まずV1野に入力される。V1野では短い線分のようなものが認識される。V1野で処理された情報はV2野に伝達され、そこでは線分の組み合わせのような、少し複雑なパターンが認識される。その情報はさらに上の階層の領野に伝達される(厳密にはV2から上は2系統に分かれる)。
最上階の階層では、例えば特定の人物の顔が認識されたりする。脳を手術中の患者の新皮質のある部分を刺激したとき、女優のジェニファー・アニストンを思い出したというジェニファー・アニストン細胞は有名である。昨今大流行の深層学習(ディープラーニング)は、上記の機構を再現して、視覚の機構解明に成功したと言われている。
新皮質の働きと深層学習
しかし私は現在の深層学習が脳の機能をよく模倣しているという主張には多少、違和感を持っている。深層学習で画像認識を行うには次のようなステップを経る。例えばネコの写真を人工知能にたくさん見せて、それがネコという名前であることを教える。また犬の写真を見せて、犬という名前であることを教える。これを教師あり学習という。ところが、人間でも動物でも視覚を訓練するのに、教師あり学習をしているわけではない。確かに人間の子供の場合、お母さんが「あれは犬よ」とか「これはネコよ」と教えるであろう。しかしこれは言語の学習であり、視覚の訓練ではない。動物が視覚の訓練をするのに、例えば母ネコが名前を教えたりはしない。つまり動物も人間も教師なし学習が基本である。
また現在の深層学習は学習速度が非常に遅いという欠点を持っている。ネコならネコの写真を数千、数万と見せないと学習できないのだ。しかし人間を含む動物ではそんなことはない。一、二度の学習ですむ場合もある。その意味で、現状の深層学習が脳の基本的アルゴリズムであるとする説には疑問がある。
脳のフィードバック情報の重要性
もっと重要な差異がある。脳におけるフィードバック情報の重要性である。フィードバック(あるいはトップダウン)情報とは何か? 先に網膜から来た視覚情報のような知覚情報は、まず最下層の領野に入り、そこで一定の処理がなされて、その処理された情報が上の階層の領野に伝達されると述べた。これをフィードフォワード(あるいはボトムアップ)情報という。
深層学習は基本的にフィードフォワード情報のみを利用している。深層学習を少しでも知っている人なら、そこには逆誤差伝播(バックプロパゲーション)という仕組みがあり、これがフィードバック情報と思われるかもしれないが、それは違う。私がここで述べるフィードバック情報と逆誤差伝播は全く別の仕組みである。逆誤差伝播のような複雑な仕組みを脳が備えているとは考えられない。
新皮質の領野間を結ぶ軸索とよばれるケーブルがたくさん脳内を走っている。この接続のことをコネクトームとよぶ。下の階層から上の階層に情報を伝達する軸索よりも、逆の方向に情報を伝達する軸索の方が、むしろ数が多いくらいである。それほどフィードバック情報は人間の脳の働きにとって重要である。しかし人間の思考の不合理性は、このフィードバック機構に由来するというのが私の主張である。
それではなぜフィードバック情報が存在するのか? それは認識という脳の働きにとって本質的に重要であり、効果的に働くからである。これがなければ正しい判断を迅速に下せない。その意味ではきわめて合理的なのである。しかしこの合理的な仕組みが、同時に人間の非合理な思考の根源であるというのが私の考えだ。
ベイズ確率とベイジアンネットワーク理論
ここで話を神経科学から数学に移す。ベイズ確率と言われるものの話をする。これが人間の大脳の働きに本質的な役割をはたすと私は考えている。ちなみにベイズとは18世紀の英国の牧師トーマス・ベイズのことであり、後で述べるベイズの定理で有名である。
この節の話は少し数学的なので、興味がない読者は飛ばしてもよい。そのために話の要点だけまとめておこう。大脳はベイジアンネットワーク理論と呼ばれる数学理論で記述できる可能性が高いこと、その場合、脳内では情報が上下に走り回ること、特に上から下に降りるフィードバック情報が重要であること、それが効果的な迅速な判断を可能にすること、しかし逆にそれが錯覚、思い込み、偏見、レッテル貼りなどの非合理性の原因であるというのが、私の主張の根幹である。
さて確率とは何か? 例えば硬貨を投げた時に、表が出る確率は50%であると言われる。そのことの意味は、硬貨投げを多数回、例えば1000回行った時に、表が出る場合の数はほぼ500回だということだ。このような確率の定義を頻度主義とよぶ。
しかし確率には別の定義もある。例えば天気予報において、明日雨が降る確率は50%であるという時に、この確率は頻度主義では説明できない。明日の天気は何度もあるわけではなく、一度限りだからだ。もっと適切な例としては、例えばヒラリー・クリントンが大統領になる確率は60%であると聞いたとしたら、この確率は一度限りの事象であるので、頻度主義では説明できない。そのように頻度主義で説明できない確率を扱うのがベイズ確率である。
事前確率と事後確率という概念がある。事前確率とはある事象が起きる前に、その事象が起きる確からしさをいう。例えば硬貨投げで表が出る確率は50%というのは事前確率である。事後確率とは、特定の事象が起きた後で、その事象の原因がXであった確率をいう。
因果関係という概念がある。原因があって、結果が起きるということだ。原因が分かっていて、それである特定の結果が起きる確率は事前確率である。逆に結果が分かっていて、その原因が特定の事象である確率が事後確率である。
わかり易い例をあげよう。病気と症状の関係である。この場合、病気が原因で症状は結果である。例えば風邪(原因)をひくと発熱する(結果)確率は60%だとしよう。それはたくさんの症例から分かっている。しかし発熱の原因は風邪だけではない。インフルエンザにかかると発熱する確率は例えば90%としよう。さらに結核に罹患すると発熱する確率は60%、下痢をすると発熱する確率は5%とする(ここに上げた数値は適当な当て推量である)。
医者が患者の診断を行うとき、症状(結果)をみて病気(原因)を推測する。患者が発熱しているとして、風邪かもしれないし、インフルエンザかもしれない、または結核かもしれない。殆どありそうにないが、下痢かもしれない。医者が患者の発熱という結果を見て、その原因が風邪である確率が70%であるとしたら、その確率が事後確率なのである。つまり発熱という症状をみて、風邪である事後確率を推定するのである。
医者の診断とは事後確率を使って結果(症状)から原因(病気)を推測することである。症状のことを証拠(Evidence)ともいい、病気のことを仮説(Hypothesis)ともいう。このように証拠から仮説を推定することを統計的因果推論とよび、ベイズの定理が使われる。もっともお医者さんはベイズの定理など知らないかもしれないが、経験的にそれを使っているのである。診断という行為は基本的に統計的因果推論である。
ベイズの定理について簡単に述べる。ここは数学的な話であるので、興味がなければ飛ばして構わない。
いま事象AとBがあるとする。事象Aが起きたあとで事象Bが起きる確率(事後確率)をP(B|A)と表す。Aが与えられた時(given)のBの確率という意味だ。この逆にBが与えられた時にAが起きる確率、つまりP(A|B)を、もっともらしさ(尤度)という。ベイズの定理はこの二つを次の式で関係付ける。
P(B|A)=P(A|B)P(B)/P(A)
である。先の病気の例で言うならAが症状でBが病名である。ここでP(B)はBの事前確率(Prior)という。あとで述べるがこの事前確率が問題なのだ。この例では因果の流れはB->Aと表現できる。
分母のP(A)は比例定数なので、今後の議論からは省いてもかまわない。するとベイズの定理は
P(B|A)∝P(A|B)P(B)
となる。
例えばAが発熱という症状(結果)で、Bが風邪という病気(原因)とする。その場合、患者が風邪である確率はP(A|B)=P(発熱|風邪)=0.6と、病気の中で風邪が占める割合(例えば90%だとして)P(B)=0.9であるから、これらの積、つまり0.6x0.9=0.54に比例する。
ところがBを結核とした場合、結核が病気に占める割合は例えばP(B)=0.0001と極めて低いので、発熱症状を示した患者が結核である確率はP(発熱|結核)=0.6とP(結核)=0.0001との積、つまり0.6x0.0001=0.00006に比例する。つまり結核になると発熱する確率は高いのだが、発熱したからといって結核である確率は極めて低いのである。ここがベイズ的な因果推論のキモである。ガン検診で、ガンだと陽性になる確率は高いが、検査で陽性だからといってガンである確率は高くない。
以上に簡単に紹介したベイズ統計にもとづく、結果から原因を推論する手法を統計的因果推論とよぶ。上の例では因果の流れはA->Bと簡単だが、実際はもっと複雑な入り組んだ因果の連鎖でも適用できて、ベイジアンネットワーク理論として知られている。極めて合理的な数学的な理論である。
ベイジアンネットワークとしての大脳新皮質
話を大脳新皮質に戻そう。先に述べたように、新皮質は多くの領野から構成されていて、それは階層的構造になっている。一番下の階層には網膜や鼓膜からの知覚情報が流れこむ。その情報は上の階層にいくほど、抽象的な表現になり、階層の一番トップでは言語的、数学的な高度な思考になる。情報の流れは、下から上に流れるフィードフォワード情報と、それとは逆に上から下に流れるフィードバック情報からなる。これをベイジアンネットワークと考えることができる。
いま中間にある領野を考える。一つの領野には数億個のニューロン(神経細胞)があり、それが発火していたり、いなかったりする。ある時点で特定の数のニューロンが発火していて、次の瞬間には別の一群のニューロンが発火する。このようなニューロンの状態を、ベイジアンネットワーク理論の言葉では信念(Belief)と呼ぶ。信念といっても「あの人には信念がある」といった類の信念ではなく、ニューロンの発火状態のことをそう表現するだけだ。領野内のニューロンの発火状態を、ベイジアンネットワーク理論では確率変数で表し、確率変数のある状態を信念と呼ぶのである。
ある領野の信念は、下の階層から上がってくるフィードフォワード情報(証拠)と、上の階層から降りてくるフィードバック情報(事前確率)の両者で決まる。数学的に具体的に言えば、信念は下からくる尤度と、上からくるフィードック情報の確率の積になる。
数学的な話は忘れても良い。新皮質の領野の状態は、単に下から上がってくる知覚情報だけではなく、上から降りてくる情報が重要な役割をはたすということがキモなのである。
大脳新皮質で情報の流れがこのように上下の双方向になっていることは、知覚と認識にとって非常に効果的である。もし下の階層から上がってくる知覚情報だけしかないとしよう。その場合は認識がノイズに極めて弱くなる。例えば画像認識を考えよう。その画像に沢山のシミ(ノイズ)があったとしよう。そのシミが本来の属性なのか、単なるノイズなのかはそれだけでは分からない。しかし、上の階層に、本来見えるべき画像のモデルが蓄えられていたら、下からくる情報と上にある情報を比較して、シミはノイズであり、除去すべきものであることがすぐに分かるだろう。
また画像の一部が隠れていたとしよう。例えば、人の顔が物に隠れて半分だけしか見えない状態を想像しよう。視覚情報をそのまま信じれば、半分だけの顔というものがこの世に存在することになる。それを否定すべき根拠はない。しかし我々はそんなふうには考えない。隠れた残り半分の顔を想像で補うはずだ。上の階層の領野に、完全な顔というモデルが保存されているので、それと比較して、隠れた残り半分の顔を容易に補完できるのである。
ネットを使っているとCAPTCHAという仕組みに出会うことがあるだろう。入力を要求された時に、変に歪んだ字を読むことを要求されることがある。あれがCAPTCHAである。あの変に歪んだ文字は人間しか読めないと考えて、あんな仕組みを考えたわけだ。CAPTCHAは、文字入力をしているのが人工知能ではなく、生身の人間であることを保証するための仕組みである。しかしこのCAPTCHAはベイジアンネットワーク理論を用いた人工知能では破ることができるのだ。つまり、その意味では人工知能は人間並みになったのである。
人間の網膜は2次元的である。だから網膜に映る像は2次元である。2次元像に対応する、もとの3次元物体は無数にありえて、どれが正しいかは決定できないはずである。しかし人間(動物)は3次元的な知覚ができる。それは目が2つあるからだと言われているが、実はそれだけではない。目が一つしかなくても、立体感は分かるのだ。それは例えば影などの状態を見て判断するのだ。絵で立体感を表すには、陰影をつけるだろう。あれである。脳の上の方の階層には、影があると丸みをもっているという事前知識が脳内に蓄えられている。下から来た視覚情報と、脳内に蓄えられたモデルを比較することで3次元的な知覚ができるのだ。
しかしこのことは、錯視の原因にもなる。錯視という現象は、上からくる情報が起こすのである。錯視は人間が世界を正しく判断していないという意味においては間違いなのだが、避けられない間違いなのだ。
人は学習で脳内に世界モデルを構築する
いよいよ話は核心に近づいてきた。錯視現象が人間の脳の合理的な仕組みの非合理な結果の例である。もっとも錯視には網膜に近い部分で生じるものもあるが、先に述べたフィードバック情報により生じる場合も多い。つまり知覚器官から上がってきた情報を虚心坦懐にそのまま受け入れるのではなく、脳の領野階層の上の方に構築された世界モデルと比較することにより、判断が下されるのだ。この仕組みは、判断の迅速さ、ノイズ除去、欠如した情報の補完などに必要不可欠である。しかし同時に錯視のような不合理な結果も生じる。
脳内の上の方の領野階層に構築された世界モデルとは、先に述べたベイジアンネットワーク理論の言葉でいうなら事前確率である。あるいは事前知識といってもよい。人間(動物)は、知覚情報を脳内のモデル(事前知識)と比較することで迅速な判断を行っている。
この世界モデルはどのようにして得られるのだろうか? 遺伝的に最初から決まっている部分もあるが、人間の場合ほとんどは生後の学習により得られたものだ。人間にとって、生後の学習は非常に重要な役割を果たしている。目でものを見るといった基本的なことすら、実は学習の産物なのである。生まれたばかりの赤ん坊は目があっても視力は弱い。つまり光学的な器官としての目はあっても、ものの見方を学習していないので見えないのだ。
神経科学的に言えば、ニューロンはそれぞれが1万個程度のシナプスで他のニューロンと結合している。ニューロン間のシナプス結合をコネクトームという。赤ん坊は視覚のコネクトームが未完成なので視力が弱い。目の使い方だけではない。体の動かし方からほとんど全てをコネクトームが決めているのだ。人間の個性、人間を人間たらしめているのはコネクトームである。人間は外部世界のモデルをコネクトームという形で脳内に構築している。動物より人間は発達が遅いので、学習の重要性はさらに大きい。
知能は遺伝で決まるというが、それは可能性の最大限を決めるだけで、その可能性を開花させるのは学習である。一卵性双生児でも、一方を人間の家庭で育て、もう一方を極端な話だが狼が育てたとしたら、その狼少年は言葉が喋れない。つまり可能性が開花しないのである。いわゆる世界観といったような高度なことまで全て、学習で決まるのである。
人は外部世界よりは脳内世界を見ている
人間の知覚器官の中で視覚は非常に大きな部分を占めている。実際、大脳新皮質のかなりの部分が視覚処理に使われている。しかし、視覚情報の情報量はそれほど大きくないのは意外である。実際、網膜の視細胞は1億個程度もあるが、網膜から脳に情報を送る神経節細胞は百万個程度しかない。いわば百万画素のデジカメに例えることができる。いまどきのスマホならその10倍の解像度を持っているであろう。
目が脳に送り込む情報量は、次のように評価できる。例えば1秒間に100回、例えば千万ビットの情報が送られるとすれば、毎秒10億ビットになる。一方、脳のシナプスの数は100兆個であるので、単純にシナプスが1ビットの情報を持つとして、脳は100兆ビットの情報を持っている(本当はもっと大きいと考えられるがここでは計算を簡単化した)。目は脳内の情報を1秒間に10万分の一しか変更できないのだ。それほど視覚の情報量は小さいのである。
我々が外部世界を見るとき、ほぼ180度近い視角をもっている。写真を撮ってみてわかることは、外部世界に溢れる情報量は数千万画素のデジカメでも一度には捉えることはできない。しかし我々は、ふだん物を見るのにそれほど不自由していない。なんでもきちんと見えていると思っている。その理由は、我々は外部世界を虚心坦懐に見ているというよりは、脳内に構築された世界モデルを見ているからである。普段見慣れた家庭内や道路、職場、学校などのモデルが脳内に構築されていて、我々はわずかな視覚情報から、それを再現しているのだ。
我々は見たい物を見て、聞きたいことを聞いている。実際、目に見える(はずの)、多くの物から、我々は見たい物を選択してみている。そうでなければ、溢れかえる情報を処理できない。パーティーの会話で、たくさんの人がひしめきあっていても、人は自分の友人の声を聞き分けることができる。要するに人は見たい物だけを見て、聞きたい物だけを聞いているのである。
人間の思考の非合理性の根源
ここまでは神経科学とベイジアンネットワーク理論という人工知能理論の一種を用いて、人間の知覚にせまった。ここからの話は、私の意見である。
私は知覚といった基本的な脳の働きにとどまらず、普段の人の行動や考え方、さらには政治的意見などの高度な思考においても、前述の脳のメカニズム、つまりベイジアンネットワーク理論的な考えで説明できるのではないかと考えている。つまり人はある物を見たり、話を聞いたりした場合に、素早く判断するために、脳の奥にある事前確率、事前知識と照らし合わせて判断する。その事前知識は長年の学習で作られた物だ。だとすれば事前知識が間違っていたら、判断も間違った物になるであろう。
私はこの間違った事前知識を偏見、思い込み、レッテル貼りと呼ぶことにしている。人は話を聞いたり、記事を読んだりした場合に、その情報を虚心坦懐に判断するのではなく、自分の事前知識、つまり自分の世界観で判断する。例えば政治的な意見でも、自分の考えと合わない人の話は「あいつはXXだ」とレッテル張りをすることで決めつける。その方が判断は早いし、疲れないのである。カーネマンの言うところの速い思考である。
人は見たい物を見て、聞きたい物を聞く。人間の脳は人間の顔に敏感に反応するという特質を持っている。それは生まれて以来の学習の賜物だ。人間は社会的生物だから仲間の人間の顔を早く判定できるほうが生存に有利なのである。しかしそれが行き過ぎると、火星の人面岩みたいな話になる。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という言葉がある。昔の人が灯火のない夜道を歩いていて、なんか変な格好の物を見たとする。その場合、事前知識を動員して、それは幽霊であると判断するのである。昼間に見たり、近寄って調べたりすれば、たんなる枯れたススキであるのに関わらず、なのだ。
表に書かれた数字の計算問題についての研究がある。被験者は表に書かれている項目が普通の言葉の場合は正しく計算できても、銃規制のような政治的に敏感な言葉で書かれた場合は、その人の政治的信条によっては計算間違いをするという。知能指数とは関係ないのである。それほど人間は非合理なのである。私はネットやマスメディアに流れている政治的意見などの大部分は、この種の偏見、思い込み、レッテル貼りなどの非合理思考の産物だと考えている。同じ意見の人もいるようだ。
http://matome.naver.jp/odai/2140482621278319401
橘玲という作家が書いた「バカが多いのには理由がある」という本がある。人間の思考のほとんどをカーネマンの言う速い思考が占めるから、人間はバカだという。全ての判断を速い思考で行う人を「バカ」と定義するなら、人間はほとんどがバカであると橘はいう。
http://www.huffingtonpost.jp/akira-tachibana/baka_b_5562320.html
『私たちは生活の99%(もしかしたら99.9%)を「速い思考」で済ませています』と橘は書くが、そんなものではない、人間は遅い思考をするのは脳活動の0.0000001程度であると、モニカ・アンダーソンという人工知能起業家は主張している。なぜなら視覚から入る情報が毎秒10億ビットだとして、そのうち意識に上る情報は毎秒100ビット程度だからだという。人間は論理的・合理的・分析的思考をするのは、その程度の割合で、残りは速い思考で間に合わせている。だからもし人間と同じ機構で考える汎用人工知能ができるとしたら、それは基本的にバカであろうから、シンギュラリティは起きない、人工知能の反乱はないとアンダーソンは断言する。
https://vimeo.com/monicaanderson
それでもバカでない汎用人工知能を作れるか?
このように人間は基本的に非合理な考え方をする機構を埋め込まれた「バカ」であるという考えはもっともらしい。とはいえ、現代科学技術文明の成功は、人間の持つ合理的、理性的、論理的思考の産物であることも事実である。それがたとえ人間の思考の0.0000001であったとしてもだ。
私はこの理性的部分を伸ばした、人間よりはるかに賢い機械超知能が作れないかと夢想している。先に述べたように、速い思考をすることは生存に都合が良いのだが、機械超知能は生物ではないのだとすれば、生存のための機構は必要ないかもしれない。だって機械なのだから、こわれてもいいじゃないか。他の機械との生存競争はないはずだ。だとすれば機械知能の理性的部分をもっと伸ばせるのではないだろうか。
人間の知能を限界づけているのは、新皮質の面積の限界である。それは頭蓋骨の大きさの限界による。しかしこれ以上人間の頭が大きくなると、産道を通過するのが難しくなる。生物としては限界にきているのだ。
機械知能であれば、新皮質に相当する基盤の面積に原理的な限界はない。また新皮質は2次元的であるが、3次元的な機械新皮質を作っても良いはずだ。また領野の数も、人間と違って限界はないのだから、いくらでも抽象的な思考をさせることができるのではないだろうか。
そう考えると、神のように賢い汎用人工知能を作れるのではないだろうか。機械超知能はようするにコンピュータであるから、複製するのはコピーすれば良いわけで、有性生殖は必要ない、従って性欲もない、だから雑念もない。純粋に理性的な、勉強と思索にふける機械ができるのではないだろうか。
アメリカへの日本人留学生の減少
2014年3月10日
大槻義彦
アメリカへの留学は若者の憧れの一つだった時代があった。
アメリカの中流家庭の車とテレビ、それに目もくらむようなプール付きの中庭でのパーティ。
そして緑豊かで国際色にあふれたキャンパス生活。
この憧れは2000年代の初期まで続いたが、最近になると様相は一変した。
かつてアメリカには47000人ほどの日本人留学生がいたが、最近になるとこれが25000人どまり。
アメリカ留学生の国別総数では第1位から現在第6位に激減した。
これを反映してアメリカ留学を支援(?)するというアメリカ教育研究所が主催する『留学フェア』に参加して自分の大学を紹介、勧誘するアメリカの大学数は激減した。
アメリカの関係する人々はこの現状を嘆いてくれる。
『アメリカ留学生は帰国後日本の主要な部署で活躍して指導的役割をはたしてきた。これが激減したのでは将来の日米関係にまで影響する』(読売新聞2011年1月、など)。
またわが国の政府関係者や『識者』も、『若者の内向き志向なのだろうか』と心配する。
はたしてアメリカ留学生の減少が国の将来を左右するほどの『由々しきこと』なのだろうか?
5万人にものぼるアメリカ留学生はどのような若者であったろうか。
筆者はアメリカシアトルに隣接するバンクーバーにおいて日本人留学生の様子をつぶさに見てきた。
もちろん冒頭で述べたアメリカ中流家庭への純粋な憧れがあるが、実態はいささかふに落ちないものであった。
何よりも目についたのは意図した日本の大学に進学できなかった若者が大変多いことだった。
あまり目立たない地方の私大に行くよりはアメリカ留学の方を選んでしまう。
さらに日本でどのようなレベルの大学にも進学できず長期の浪人生活を強いられるよりアメリカの大学を選ぶ。
次に目につくのは企業、政府関係機関からの派遣留学である。
これは主に大学院への留学であるが、企業、政府関係機関から選ばれて費用、給料丸抱えは当たり前、工系ならば留学先の研究室への手土産(研究費)までついている。
筆者の研究室出身で企業に就職したおよそ70名のうち、このような形の留学は大変多く、およそ26名にものぼった。
次は日本の大学院教育に幻滅して自分で学部終了後に入学資格をとって私費留学した人人。主に文系、それも経済、経営、英米文学などの分野の学生である。
さて今これらの留学生が激減したのだという。それは当然といえば当然ではないか。
今や少子化の影響で地方の私大など『全員入学』の時代となったのだ。
地方の旧国立大学などでも学部によっては全員入学に近いのだ。
この時代にアメリカに『逃げて行く』必要はなくなった。
それにアメリカ中流社会も崩壊寸前。憧れでアメリカにわたる動機のおおもとも無くなった。
考えてみれば日本の大学進学者の10%ものアメリカ留学生は異常であった。
アメリカ留学生の総数の第1位が日本である必要はないのだ。
これこそ異常であり、今、それがやっと正常に戻りつつあるのだ。
(本稿は物理科学雑誌『パリティ』(丸善)の、筆者によるエッセイを一部改編したものです)
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